細田守監督の最新作として話題となった「竜とそばかすの姫」。
「竜とそばかすの姫」公式サイト (ryu-to-sobakasu-no-hime.jp)
音楽や特には軒並み高評価ですが、ストーリーに関しては賛否両論様々な意見がネットで飛び交っています。
賛否両論といえば。同じくアニメ映画の「天気の子」も賛否両論意見が分かれていました。
ではなぜ近年のアニメ映画はこのように賛否両論分かれてしまうのでしょうか。
考察していくと、現代社会の常識や、日本ならではの考え方が浮かび上がってきました。
「竜とそばかすの姫」と「天気の子」を参考に考察していきます。
注意ポイント
この考察では「竜とそばかすの姫」「天気の子」のストーリーに触れています。ネタバレしたくない方は見終わってから読んでいただくことをお勧めします。
目次
①主人公の若さによって生じる問題。
映画「竜とそばかすの姫」より
細田守監督と作品、深海誠監督の作品、さらにアニメ映画の巨匠宮崎駿監督の作品。
もちろんすべてではないですが、アニメ映画の主人公の年齢は未成年であることが多いです。(中学生~高校生あたりが一番多いでしょうか)
この「主人公が未成年である」というのも、日本らしさが出ています。
基本的に映画、特にアニメ映画は「主人公の成長」、そしてそれを通じて「世界を変える」というのが根底にあります。
そこに「恋愛要素」が加わったものがアニメ映画の王道ストーリーです。
主人公の成長に必要なものは「様々な経験」です。
先輩の実家に行ってみたり、旅に出てみたり、異世界に入ってしまったり…。
とにかく、この「経験」にはある程度まとまった時間が必要です。
その時間を手に入れられるのが、日本では「子ども」つまり未成年になります。
もし大人が、昼間から旅に出ていたらそれは明らかに「異常」です。
ふつうは仕事がありますからね。泣
数週間、数か月なんて大人が旅に出ていた日にはきっと大ブーイングでしょう。
なので「成長」をメインにストーリーを描きたい場合は主人公を若くする必要があるのですね。
話を戻します。
主人公が未成年だと、どうしてもできないことが発生します。
お金を稼ぐこと、社会的地位などです。
これが次のトピック「現代を舞台にすることで生じる問題」に繋がります。
②現代を舞台にすることで生じる問題
映画「竜とそばかすの姫」より
映画、特に近年のアニメ映画は現代を舞台にしたものが多いです。
「君の名は」「サマーウォーズ」等々、舞台は現代ですよね。
…「鬼滅の刃」は含まないでくださいね。あくまで一本の映画で完結するストーリーに限らせてください。
これは後述する理由で離します。
なぜ現代を舞台にしたものが多いのか。
映画では特に尺が短いです。アニメ、漫画、ドラマなどと比較するとわかりやすいでしょうか。
映画では約120分で起承転結を描き切らなければいけません。
そのため、映画が始まった導入部分でいち早く世界観を視聴者に理解させる必要があります。
何の説明もなく、映画の登場人物が空を飛んだりでもしたら視聴者は置いてけぼりになってしまいます。
その点、舞台を現代にしてしまえば世界観の描写はほぼ不要で、主人公が住んでいる場所さえ見せてしまえば大体その主人公の生活を理解させることができます。
田舎なのか都会なのか等ですね。そこにちょっとだけフィクションを足すのが最近の主流のようです。
しかし舞台を現代にすることで、最近では描かなければいけないものが増えてしまいました。
「社会問題」です。
「竜とそばかすの姫」ではそれが顕著になっていて、「SNS上の匿名書き込み」「家庭内暴力」「いじめ」等々様々な問題が作品内には描かれていました。
同じく仮想世界を舞台にした「サマーウォーズ」より、その一面は強くなっています。
近年、特にここ数年その動きは強まっています。
ドラマでもそうです。ジェンダーに配慮した配役など増えましたよね。
筆者はこの記事で「竜とそばかすの姫」がジェンダーに配慮した描き方をしている考察しています。
まだ読んでいない方はよければどうぞ!
【ネタバレあり】「竜とそばかすの姫」竜の正体がわかる伏線とは?しのぶくんの役割は何だったのか?徹底考察します。 - 森に住まうサボテン。 (mori-sabo.com)
なぜこれら「社会問題」を描くのか。
理由は、批判をされないためです。
一度「社会問題」を意識した作品が出てしまうと、後続も続くしかありません。
そうしないと配慮が足りない等の批判が出てしまいます。
そういった「モラルの低さ」というレッテルは現代では長期間残ってしまいます。
むしろ制作側は脚本、演出で批判をされたほうがマシくらいの気持ちなのかもしれません。
そのため、なんとか物語中で社会問題を描こうとしまう。
しかし、そこで主人公の若さが問題になってきます。
「竜とそばかすの姫」ではそれが顕著でした。
家庭内暴力に立ち向かう決意をした恵(けい)。
しかし、その先は描かれていません。
ここが視聴者のモヤっとしたところの一つではないでしょうか。
恵はまだ14歳。
立ち向かうといっても、親から離れて生活する費用も持っていないだろうし、かといって暴力をふるう親を止める力も恵本人にはまだないでしょう。
結局のところ、周りの大人に頼らなければいけなくなります。
大抵の社会問題はこういう問題が発生します。
大人が関与せざるをえないのです。
つまり、制作側は描けないのではなくあえて描かないのではないでしょうか。
大人が関与してしまう場面を描くと、せっかくの成長物語が台無しになってしまうから。
ここであえて描かないことで社会問題を甘く見すぎなどの批判が起きてしまうのです。
もっとこの問題は根深い!とかでしょうか。
「竜そば」の社会問題を無視するわけではなく、かといって大人が関与して物語性を損なうわけでもなく、あえてその後を描かないという選択は映画としてみたときに個人的にはありなのかなと思います。
③「常識」と「感動」
映画「天気の子」より
近年「社会問題」ともう一つ重視されるものがあります。
それは「常識」です。
様々なコンテンツが日々発信されている中「常識」があるというだけで、評価される場所もあります。
YouTubeはまさにそれです。
以前なら世に出てこなかった「常識」のない生き方、行動がインターネットのおかげで簡単に広まるようになりました。
そのため、我々は「これは常識的なのか否か」を自分で判断しなければならなくなりました。
これは「常識」がある健全なコンテンツなのか。
筆者は「常識」がない=「大人でない」「教育がなってない」等様々なネガティブなイメージを持っています。
話を戻します。
莫大なコンテンツが生まれている中で、「常識」があるかないかは大変価値のあるものになってきました。
それは映画でも同じです。
「常識」がないものは子どもの教育によくないとか、「常識」がないものは見る価値がないとかでしょうか。
あまり歓迎はされない雰囲気がありますよね。
しかし、その「常識」を覆さないと得られないものがあります。
それが「感動」です。
「天気の子」では帆高は、陽菜を救うために結果的に異常気象が続く世界を選びます。
ずっと雨の続く世界ですね。
世界の大半の人は、異常気象の終息を選ぶでしょう。きっと筆者もその一人です。ごめん、陽菜ちゃん…。
しかしその「常識」外れの行動がなければこれほどの感動はなかったでしょう。
世界のために陽菜を犠牲にしてしまったのでは、この映画は何をしたかったんだ?となってしまいます。
一方帆高の行動には、「常識外れだ」「共感できない」等の声も上がってしまいます。
つまり「常識外れ」と「感動」は紙一重ということですね。
人と同じことをしても感動はない。映画としては「常識」を覆さないといけない。
しかし、その「常識外れ」の行動は一定層からは受け入れられない。
それが近年の映画で賛否両論が起きる理由だと考えます。
…愛する人がこのまま帰り道を進んでしまうと何者かに殺されてしまう未来が分かってしまった主人公が、もし車のいない横断歩道を歩いて渡って、住宅街だからと声を潜め愛する人の名前すら叫ばなければ、感動も何もないですよね。
まとめ
文字数が多い記事になってしまいましたがここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
この記事を書くにあたって参考にした「竜とそばかすの姫」「天気の子」は筆者が好きな映画です。
賛否両論あるとはいえ、やはりどちらも多くの人が見た作品なだけあり完成度は高いと思います。
こまだ見ていない方はこれを機に一度見てみて、考察していただければ嬉しいです。
では今回はこのあたりで!